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未来コンピュータその3(月刊ASCII 1992年7月号9) [月刊アスキー廃棄(スクラップ)]

「未来コンピュータ」から「パソコン使いの達人にインタビュー!」をスクラップする。

高橋 悠治
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――最近はずっとコンピュータを使ったライブをやってらっしゃいますが.
高橋 最近じゃなくて,私は昔からコンピュータを使ってたのね。1964年にパリで,IBMのシステム360を使って自動作曲をさせたのが最初で……FORTRANでプログラム書いて,出力,それは数字の表なんだけどそれを楽譜に直して演奏してテープに取る,と.
 最近コンピュータミュージックっていうと,テープレコーダの代わりのような使い方のことを指すことのほうが多いみたいだけど,僕が今やってるのは,当時から大型コンピュータを使ってやってきたことに近いんじゃないかな.
――大型コンピュータでは何をするのでしょうか?
高橋 私がいっしょに研究してたクセナキスは,確率理論に基づく曲の生成や、最近では確率波……つまり,確率によって波形を作る,なんてことをやってる.
 けどこれって,すごい計算能力が必要だから,リアルタイムじゃできないのね。44kHzで再生するとしたら,4万4000分の1秒の間に波形の次の点のデータを計算しなくちゃいけない,それはまあ,どういう理論で音を作るかにもよるけど。だからヨーロッパでコンピュータ使ってやってる人の場合,作品はたいていテープなの.大型コンピュータで,何秒分かずつ計算して,テープに録る,という作業をくり返して1曲作るのね。でも,もうちょっとコンピュータの能力が上がるか,あるいはDSPの機能が上がれば,リアルタイムでそういう計算ができるようになるでしょう。最終的にはパソコン上で使えるようになるのかもしれない。
――現在のライブではどういうことを.
高橋 今やってるのは、自動作曲&自動演奏,で,それに人間が途中でかかわる,っていうスタイル。曲を構成するさまざまなモジュールをプログラムで制御することで作品が生まれる。今はMacintosh上でMAXっていうGUIベースの開発言語を使ってる。これは確率とか条件判断とか,普通のプログラム言語ができる処理はだいたいできるから.
――こうなってほしい,ということはありませんか?
高橋 そうね,たとえば今,人間のアクションを入力として取り込む場合,Pitch to MIDIコンバータっていう,音の高さをMIDI情報にする装置を使うんだけど,これだと単音しか取れない。和音が取れるともう少し複雑なことができるんだけど.
 あと,もう少し融通がきいてほしいね。プログラムの一部を修整したいときなんか,まずその部分がちゃんと動くかどうか,それから,それによって全体が変なことにならないか,いつもしっかり考えてチェックしながら進めなくてはならないのでとても大変です。楽譜を書くときなんか,普通はそんな細かいことまで考えないんだけど.コンピュータにもそういう,自己修復機能みたいな機能があるといいなあと思う.
――10年後,あるいは未来の音楽シーンへのコンピュータの影響についてはどう考えられますか?
高橋 作るということの意味が大きく変わってくるんじゃないかな.音楽作品,私の場合それはプログラムですけど,そうじゃなくて普通の,標準MIDIファイルのようなものでも,公開されれば誰でも作品を入手して,それに対してとても簡単に手を加えることができる.すると,誰の著作物でもないような音楽が出てきます。特に作品がプログラムだと,作品の本質にかかわるような部分も簡単に変更できるわけですから.また,ネットワークを通過することによって作品が成立する,なんてことも起きてくるでしょうね。そこで何が生まれるかは興味深いですね。


石原 藤夫
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――過去のSFと実際のコンピュータの発展をながめてこられて,どのような未来像が見えてきますか?
石原 SFにおけるコンピュータ像は,初期のころは巨大で万能の,ほとんど神のような役割を演じるというパターンが多かったと思います。もっとも,先日発掘したHURLYという作家の作品のように,小型化して,家庭に端末が入るなんてことを予測したものもあったけれど,基本的には真ん中に大きな大きなコンピュータがあってそれがすべてを制御しているというのが多いですね。たとえば今私の机の上にあるPC-9801FAのような,ひとむかし前の大型コンピュータをしのぐようなものがこんなに家庭に入ってくるという方向になるとは,ほとんど誰も予測していなかったのではないでしょうか.
 そういう意味では,SFに見るコンピュータから未来を語ることは、なかなか難しいものがありますね。
――今コンピュータに望むことといったら何がありますか.?
石原 作家としての立場から言えば,自動でプロットを作ってくれるようなのがあるといいね。ロマンス物なんかでは実際に使われてるらしいけど,適切なアシストをしてくれるようなものを作るのは難しいみたいですよ.
――では,工学博士として,10年後のパソコンを予想していただけないでしょうか?
石原 ここ10年に関しては,自動翻訳がたぶん実用レベルに達すると思います。これは非常に大きなことですね。現在,世界で流通している情報の多くは英語です.ドイツ語やフランス語の論文では,アブストラクトだけは英文がつくのが普通ですし,日本の論文でも重要なものはほとんど英語に翻訳されます。その点で,われわれは英語圏の人にたいして情報のタイムラグや利用可能性という点で大きなハンディキャップがあるわけです.
 ですから,自動翻訳が実用レベルになれば,われわれ日本人にとっては、ワープロの出現と並ぶ大きな変化が起こるのではないかと思います。これには同時に,紙を読み取る技術も進歩していてほしいのですが……英文の資料をスキャナみたいなもので読み込ませながら,場合によっては音声で補足的な情報を付加していく,みたいな方法が実用化されると思いますよ。
――コンピュータの進化を考えると,現在の延長として人工知能やロボットといったものが思い浮かびますが.
石原 今言った自動翻訳なんてのは、いわば人工知能ですよね。SFで出てくる,感情を持ったアンドロイドみたいなものも、ずっと先には可能かもしれません。でも,コンピュータって,基本原理はほとんど変わらずに,ただパワーとメモリがどんどん大きくなっているわけですよねえ。その過程で、ワープロなんてものが急に実現可能になったりもする。量が質に変化するのを待ってるわけですから,未来を予測するのはとても難しいですね。でも、徐々にはSFの世界にも近づいていくのではないですか.
――ともあれ未来には期待できると.
石原 いいえ。この10年,日本は本当にあぶないと思いますよ。まあこれは日本に限らず先進国全体に言えることらしいのですが,技術が発達すると,技術者になる人が減るんですね。技術者っていうのは,非常によい製品を作っても科学者のように名前が残ることはめったにないんですね。でも,ちゃんと本読んで研究しなければならないし給料は安いし.いわゆる高度成長時代には,戦時中国策で研究をさせられていた,朝永博士のような非常に優秀な方が民間にまわって研究を続けられていたからここまで来たわけですが,最近はうちのゼミでもみんな金融とかマスコミとかに行きたがる.人間の総数のうち,技術者としての適性がある人はやっぱり限られていると思うんです。そういう人をどんどん別の分野に取られてしまうと,すでに作られたハイテクの世界,たとえば原子力発電所のようなところで大きな事故が起こるようなことにならないでしょうか。ハイテクに依存した状態で,システムを維持できなくなるのは恐ろしいことです.


杉田 敦
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――パソコンは,わずかな歴史の間にひとつの文化のようなものを形成してきましたよね。
杉田 パソコン文化は,とくにカウンターカルチャと非常に親和性がありました。パソコンが誕生した時代には,ビッグブルー,つまり大型コンピュータのIBMが一方にあった。パソコン登場の背景には,そうした抑圧的なテクノロジーに対して,情報の寡占を許さないぞという大義名分のようなものがあったわけです.その後,IBM自体がパソコンを売り出すようになるわけですが,基本的にはそういう精神的な背景をもって,パソコン文化はアメリカで花開き,根を下ろした.
 ところが,日本の場合は大きく違います。そういう解放のテクノロジーという雰囲気は受け継いだものの,それがあくまでも雰囲気だけのものに過ぎない.日本の場合は,パソコンをどう使って,どう捉えていくかという意識が非常に希薄でしたね。どうも,パソコンを技術的にどう発展させていくのかというレベルにばかり注目して,どう捉えるのか,どう使うのかという意識がおざなりにされてきた.
――アメリカは,テクノロジーに関して楽観的ですよね。
杉田 ミンスキーなどは,かなり早くから自分の立場を明確にしていますね。コンピュータが出てきて人間の生活は大きく変化するだろう,そして,それが悪かろうが良かろうが,とにかく進歩すればいいじゃないか、と非常に無謀なことを言っている。もっとも,その後は慎重になるわけだけど,結局は確信犯であることに変わりはないわけです。日本の場合,電子テクノロジーそのものが,弾道計算や原水爆の開発などに非常に深くかかわって出てきたという,いわば原光景のようなものを,忘れてしまっている。そうしたことへの反省なしに,脳天気に電子テクノロジーに身を捧げちゃってる。
――そういう意味では,アメリカ的な確信犯のほうが,まだましだということですか?
杉田 僕はそう思います。でも,それはアメリカの真似をしろということじゃない。抑圧的なインパーソナルなテクノロジーに対するパーソナルな解放のテクノロジーという言い方にしても,そもそも,かつてのカウンターカルチャの指導者たちが惹かれ,そこに乗っていったのは分かります.しかし,まがりなりにもポストモダンという物語の不在を,すでに経験経過した知性が,はたして素直にその物語に乗っかっていいのかというと,はなはだ疑問ですよね。
――しらじらしく進歩という「大きな物語」を新たに捏造するのも危険ですよね。
杉田 つまり,これからの課題は,カウンターカルチャの亡霊から脱して,どういうものを作るべきかを意識的に選択していくということでしょうね。そのときに,パソコンなんてなくてもいいではないかという考え方を、ひとつの選択肢として残しておきたいというのが、僕の考えです。
 ミシェル・アンリなどは,生の自己成長としての“文化に対する野蛮”としてのテクノロジーに嫌悪しています。これは,あまりにナイーブではないかと言われてますが,これはこれでいいのだと思います。というのは,そうした問いまでを視野におさめたうえでテクノロジーの進歩が選択されてきたとは思えないからです.ただ,無視されてきただけであると……テクノロジーに対する否定的意見を捉えて,意図的に,責任を明確にしたかたちでの「進歩」が選択されてきたのではないのです.
 サミュエル・バトラーの「エレホン」は,機械文明の進展を拒否し,271年以上の歴史を持たない機械はすべて放棄するという国の話です.“nowhere"のアナグラムでもある「Erewhon」は,決して現実にない不可能の国ですが,この物語を過度のテクノロジーアレルギーとして読むのではなく,非進歩に判断を下した国のものとして読む必要があるでしょう。パソコンを含めたテクノロジーは,少なくとも進歩への判断の中にこそ生かされるものであって,無判断の処女地の野蛮であってはならないのです。


立花 ハジメ
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――いままでいろいろな分野にコンピュータを応用していらっしゃいますが,積極的にコンピュータを使ってきた理由は?
立花 うん、確かに音楽,ビデオ,グラフィックと,どこかしらコンピュータを使ってきたね。でも,機械べったりというやり方はしてない。機械の作業と人間の作業のバランスをとることに気を使ってきたというか。機械べったりに作ってしまったら,それは単なる機械のデモだから.
 パソコンっていうのは,個人を開発して自由になるための道具,人間を覚醒させるための道具だと思うんだ.
――覚醒……とは,具体的にはどういう意味でしょう?
立花 人間はみんな超能力者なのね。自分でも気がつかないような可能性,あとから考えて自分自身にびっくりするような発想っていうのは,それはすごく低い確率かもしれないけど,ときどきぽこっと泡のように浮かんでくるよね.それを素早く書きとめる,形にする,作品にすることができる人は,超能力者と言って悪ければ,高能力者と言えるんじゃないかな.
 だから,覚醒するためのツールは別にコンピュータに限らないよ。ベンチャーズにとってはギターがそうだし,ダ・ビンチにとっては画材がそう.パソコンも本当はそういうツールのはずなんだけど,僕の見たかぎりいまだにダビンチもベンチャーズも現われていない.
 コンピュータを使えば,できた瞬間に「古典」となるような作品がもっといっぱい作れるはずなんだよね。
――古典というのはどういう意味でしょうか.?
立花 たとえばローランドのTR808っていうリズムマシンがある.通称ヤオヤっていう,ミュージシャンの間では伝説的なリズムマシンなんだけど,こういうのは古典だよね。今これを録音しているウォークマンも,最初のソニーのウォークマンは古典と言えるでしょう。そのあとリズムマシンにしろカセットレコーダにしろ,似たようなのがたくさん出たけど,それは結局真似だからね。
 それが最近は,みんなそういう「時代の作品」を楽しむことが多くなっているような気がする.今ハウスがはやってるけど,出現したときは古典と言うべき作品だったんだろうけど,今ハウス作るっていうのは自分で作ってるように見えて、実は時代が作ってるんだよね。典型的なのは自動車のデザインとかね。みんなおんなじでしょ。これは、合議制の問題が大きいと思うんだ。みんなで考えて,あれもつけよう,これもつけよう,っていったら,同じになっちゃうよ.
 ぼくはやっぱり,「個人」が作ったもののほうが面白いと思うし、作った瞬間古典になるようなものっていうのは個人でなければ作れないと思う.
――パソコンによって,またパソコンの進化によって,CGや音楽や、そういった芸術にどのような影響が今後起きてくるでしょうか?
立花 ぼくはこのあいだ,MacのIllustratorってソフトを使ってタイポグラフィを作って,それでいくつか賞をもらった――それによって,パソコンはギターや絵筆のように個人を覚醒させるツールになることを証明できたと思うんだけど。でも,Illustratorでそういうことをやる人っていないんだよね。せっかくMacみたいなすばらしいツールがあるのに,みんなで版下ばっかり作ってもしょうがないでしょう?10年後にパソコンがどうなるかなんて分からないけど、でも,パソコンを使って覚醒して,おもしろい作品を作る人は出てくるんじゃないかな.


高城 剛
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――10年後のパソコンはどう進化するでしょうか?
高城 僕が必ず言うのは,コンピュータはスタンドアロンの文化ではなく、常に現実世界,実際の生活と密着して発展していくものだということ.ある日突然,ブレードランナーのようなSF映画的状況――目の中にコンピュータをジャックインするとか――が来るわけじゃない。「お茶の間」の風景は,結局,変わらないんです.
 ただしひとつ言えることは,入出力に大きな変化があること。それから,筐体がどんどんコンパクトになっていくこと.CPUのクロックが何MHzであるとか,RISCチップがどうとか,それは実は大きな問題じゃない。非ユーザーまで含めたわれわれの生活の大きな変革は,やはり入出力端末の問題とサイズの問題,この2点だと思うな.
――小型化することはどういう意味を持つのでしょうか。
高城 温泉でも野原でも,どこでも連れていけるようになる。ウォークマンはあくまで単体で楽しむものだったけど,コンピュータはコミュニケーションメディアとして成立するでしょう.今,PDA(Personal Digital Assignment)とかIPC(Intelligent Personal Communicator)とかいろいろ言われているけれど,新しい通信機器としてのコンピュータがどんどん出てくる.どこに持っていっても,必ずどこかにつないでくれる.そのときには,すでにコンピュータという名前ではないような気がしますね。
――入出力に関しての問題点は何かありますか?
高城 今,コンピュータの入出力,あるいは表現の問題で一番足りないのは「温度」なんです。簡単に言ってしまうと,CGと普通の35ミリで撮ったものといったいどこが違うか?それは温度35ミリのムービーで撮る場合,極端な話,照明のそばに寄れば熱い.で,役者さんは汗をかく,当たり前の話だけど,それがすごく人間くさい部分を見せてくれる。そういう要素がCGにはないよね。
 入出力,特に出力するときに体感できる「温度」ができたときに,それはコンピュータという域を超えて,きわめて何か違う新しいものになるような気がしますね。いずれにしろ,どんなに速い動きの画像,どんなに高解像度のモニタよりも,温度をいかに僕らの手にもどしてくれるかが,僕は一番大事なことだと思う.
――マルチメディア時代だ,と言われますが.
高城 日本人は機械好きだよね。会うとまず,何持っているの?いいマシン持ってる人が偉いみたいな。メディアというのは,ソフトとハードが一体になって初めてメディアになるんだけど,今の状況はニューメディアじゃなくてただのニューテクノロジーだよね.テレビで流される番組について語ることをしないで「俺,テレビ持ってんだぜ」って自慢してるのと同じ。そうした機械自慢ではなく,やはりメディアとしてもう1回考える時代が来るというか、もうコンピュータを持つのが当たり前になる.その端的な例として僕がよく言うのは,'80年代に女の子を部屋に連れ込むタームは「うちにビデオ観に来ない?」だった。ところが'90年代は「こんなソフトがうちにあるけど」がくどき文句.そういう時代が確実に来るわけ.
――ホットドッグプレスの特集で,女の子を家に連れ込むアイテムになっていたり、と.
高城 そう.HDPで特集を組むくらいになることが,コンピュータカルチャーとしてすごく大事。それにもうひとつ,アンダーグラウンドの問題。イデオロギーを持ったアンダーグラウンドなメディアが必ず確立してくると思う.いずれにしろ,パーソナルなメディアを持つことは大事だよね.CD-ROMプリンタでオリジナルCDを作って匿名的にばらまいたり、とかね。テレビのチャンネルが一番分かりやすいけれど,CSが出て50チャンネルの時代が目前に来てるわけ。当然,ソフトの作り手が足りないんだ.すると,素人が作ったものでも面白いものならどんどん放送されるようになる.億総ディレクター時代,一億総ハイパーメディアクリエイタ一時代がやってくる。個人個人でものを言う時代なんだ.


奥出 直人
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――パソコンはマルチメディアをねらっているようですが,10年後にはどうなっているでしょう?
奥出 最近,“マルチメディアエクリチュール”ということをテーマにして,いろいろなところで話をする機会があります。要するに,エクリチュールの問題をマルチメディアで考えようということです.
 今までのコンピュータを振り返ってみると,それまで存在していたメディアを,コンピュータが代替していくという歴史でした.しかし,マルチメディア環境は,コンピュータがなければ存在しなかった,なにものかであるはずです.そして,それが表現するものを“マルチメディアエクリチュール”,その能力を“マルチメディアリテラシー”と呼んでみようということです。僕は,コンピュータは,空間とか部屋のようなものになっていくのではないかと考えています。たとえば音楽室とか図書室とか、そういうもの自体がコンピュータになっているということです。
――とすると,パソコンというものはなくなってしまうということですか?
奥出 パソコンは,今のようにCRTとキーボードというかたちではないかもしれませんが,マルチメディア空間の一部としては存在し続けるのではないでしょうか。
――マルチメディアというのは,どういうイメージのものなのでしょうか.
奥出 パソコンにワープロのソフトを入れたとき,感動がありました。画面に文字が出て,自由に入れ替えて編集できる。その次の感動は,初めてパソコンをネットにつないだときです.そういう率直な感動の延長線上にくるものでなければ,マルチメディアは成功しないでしょう.MacやWindows上のマルチメディアは,僕は,どうも違うな,と思っているんですよ。むしろ,ビデオをビデオプリンタでシーンごとに出力して,それを壁一面に貼り,どうエディットしようかと考えているほうが、よっぽどマルチメディアっぽい感じがしますね。
――そういった,マルチメディアエクリチュールにいちばん近い機械は,現在ではどういうものでしょうか
奥出 いちばん近いのは,ファミコンでしょうね。あれは,ハードに限界はありますが,その範囲内で,マルチメディアリテラシーの基本を切り開いたと思います.もうひとつは,ウォークマンやカーオーディオです。移動する感覚と音の結び付き方が,マルチメディア的です.いままでバラバラにあったものを統合して,違う角度から世界を認知できるようにするものであればいいわけで,それをコンピュータ空間なんかに持たなくてもいい。
 これは人間とコンピュータがフュージョンして新しい系を作るという方向なんです.今までのサイバースペースというのは、人間がコンピュータに入るわけで,決して外に開いているものではなかった。それに対して,マルチメディアはコンピュータと人間が外に開いたかたちで系をつくる。コンピュータの方向としても,そうしたコンセプトで,ウォークマンやカーオーディオの先に何かあるはずなんですよ。そのひな型は,まちがいなくファミコンだったけれども,ファミコンでいくらがんばっても,それこそ三輪車でどこまで速くこげるかを競っているようなものです.
 たとえば,今の高校生のダンスは、僕らが高校生のころよりも断然うまい。これは,プロの踊り手のダンスをビデオに撮って勉強しているからです.ビデオを何度も見直して研究して練習したら,ダンサーのように踊れてしまう.そういうこともマルチメディアリテラシーだと思います。
 そういう萌芽のようなものはあちらこちらにあるけれども,いざコンピュータの世界にくるとコンピュータリテラシーという怪物がいて,その成長を阻んでいる.もう,マルチメディアはそこまできているのに,バロック的ともいえるプログラミングの必要性が,その開花を妨げているような気がしますね。マルチメディアのためのオーサリングツールが必要なんですよ.「近代」の感情を生むために,たとえば西脇順三郎が新しい日本語を生んだみたいにね。


藤正 巌
東京大学先端科学技術研究センター,同大学医学部医用電子研究施設教授.著書に『マイクロマシン開発ノートブック』(共著,秀潤社)などがある.
――コンピュータは,この10年でどのくらい小さくなるでしょうか.
藤正 どのくらい小さくなるかということは,基本的には従来の技術の延長線で考えていけばいい。要するに,どのくらい細かい素子が作れるかという話。さらに量子素子にすれば,分子レベルの大きさの論理ゲートを作れるわけです.ある時点で量子素子ではなく,光素子になったりするかもしれないけど,それでも結局は,現在の技術の延長線上の話です。だから,コンピュータがどのくらい小さくなるかという話に,僕は関心がないのです.
――現在のコンピュータとは,まったく別の機械を考えていらっしゃるわけですか?
藤正 何かを作ろうと思うとき,お手本があるために,かえってそれを超えることが難しいということがありますよね。そういうモデルがない分野は,人間はどんどん先にいってしまいます。その典型的な例が電子素子の世界です.本来、自然の中にはなかった電子素子だからこそ,人間は考える余地があった。どんどん先へ先へと考えていくことができたわけです.では,神様が創った生物を乗り越えるにはどうしたらいいか。まず,観測することです.
――すでに,われわれは分子レベルまで観測対象にしているのではないですか?
藤正 たしかに,分子1個でも観測できますが,分子生物学や生物物理学の世界の1nmのオーダーから,その1000倍の,可視光の顕微鏡で見える1μmのオーダーまでいきなり飛んでしまう.分子生物学というと,分子1個1個のオーダーまで操作できるようになったと考えやすいんだけど,実はその途中がとんでいるんですよ.生物は,その中間のメゾスコピックといわれる領域にすべての原理がある.
 ここの領域は,1985年あたりまで観測系がありませんでした。電子顕微鏡だと,一気に分子のレベルまでいってしまうために,この中間領域の観測系がなかった.そのため,生きているものを生きたまま見る術がなかったのです.だからといって,シミュレーションでその領域の構造学をやろうと思っても,数nmの大きさになるとダメになってしまうんですよ。それ以上の大きさになると,複雑すぎて計算ができなくなってしまうからです。ところが生物は,その領域で,実にうまく機械を作っているわけです.これは何かあるぞ、と誰でも思いますよね。
 その領域を観測する,新しい方法が見つかったということが重要なのです。走査トンネル型顕微鏡(STM)やレーザ走査型顕微鏡などがそれですね。今までまったく見えなかった世界を,突然,見えるようにしてくれた。今まで生物という生きたものを生きたまま観測できるというのは,1μmのオーダーまでだった.ところが,1μmよりも下のオーダーのものが,生きたまま見え始めた。もう一方では,バイオテクノロジーで遺伝子の構造を読み取って,それをクローニングした遺伝子でもって,ものを生物に作らせることができるようにもなった。これで,初めて,観測系と合成系がそろったのです.
――ということは、いよいよメゾスコピックの広大なフロンティアが開けたということですね。
藤正 そうですね.生物を見てみると、実に不思議な機械なのです。見れば見るほど不思議です。たとえば,生物の神経系をはじめとする細胞は,みんながイメージしているような単純な線維や水の入った袋でなく,ものを運んだり組み立てたりする道具であるモータータンパクと細胞骨格でできている.この原理が分かれば,コンピュータだってオートアセンブルで作れるんですよ。このモータータンパクは,コンピュータの世界でいうアセンブラです.これを作ってやって,何かのシグナルを送ってやるとものを作り始める。まさに情報機械です.そうやれば,今までの電子系の人たちの作ったコンピュータとぜんぜん違ったものを作ることができるかもしれない.
 コンピュータを物質系から考え直すということは,当然のことではないでしょうか。その原理が,この10年ぐらいのうちに見つかるでしょう.

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武邑 光裕
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武邑 このところ急速に進んだダウンサイジングによって,スーパーコンピュータ/ワークステーション/パソコンといったハイアラーキーが,成り立たなくなってきましたね。たとえば,ハイエンドコンピュータグラフィクスと言われている領域も,この3年ぐらいでパソコンの環境になだれこんでくるでしょう。ただ,現在のウィンドウベースのパソコンの情報処理環境,いわゆる2次元的な情報処理環境は、ここしばらくは基本的に変わらないと思います.この10年で並列処理のようなことがパソコンレベルで可能になって,情報処理環境が非常に加速化されることになるかもしれません。しかし,それが一挙に3次元化してVR的なものに変化するとは思えませんね。
 おそらく,コンピュータは,マルチメディアのプラットフォームというか,コアにはならないでしょう。マルチメディアは,今までのテレビや電話,ミニコンポなどの旧来型のAV装置の延長線上のメディアとして,成熟していくだろうと考えています。
――ということは,家電でマルチメディアが実現するということですか?
武邑 いや、もう家電という概念自体が崩壊することになるでしょうね。ホームエレクトロニクスという概念では,これからのマルチメディアというものを考えることはできません。そのための新しいコンセプトを導入しないとダメでしょう。マルチメディアのためのインフラストラクチャが整備されてくるのが,1990年代だと思います.'90年代後半のイリジウム計画などは,その代表的なものですね。光ケーブルなどによるリニアな通信ではなく,大量の通信衛星によるワイアレスの世界標準化が起こるわけです.
 去年,AT&Tに映像の発信サービスの認可がおりたわけですが,これは,“放送”が“通信”へとシフトしていくという,巨大な産業変換を意味しています。そういうグランドデザインの視点から見たアプローチが必要になってくるでしょう.
――新たに必要なコンセプトというものは,具体的にはどのようなことを考えればいいのでしょうか?
武邑 重要なのは,われわれの情感=感覚情報の新しい計量化です。かつてマクルーハンが,感覚の計量化を試みましたが,どのような感覚的,情感的なモチベーションをメディアとの関係の中で可能にするのか,そしてどのように生成していくかといったことを考えなければならない.たとえば,今のコンピュータ上のマルチメディアは,せいぜい21インチ程度のディスプレイと至近距離で向かい合わなければなりません。その距離で見ることを前提に,解像度を上げていくという方向にある。それに対して,テレビは,2mから3mは離れて見ているわけです。この違いというのを,はっきり意識すべきではないかと思います。
 ハイビジョンの1125本の信号を,ふつうのNTSCの525本の信号として見ることができるようにしたテレビが出ていますが,フルスペックのハイビジョンテレビとこれを並べてみると,ほとんどの人は,ダウンコンバートしたNTSCのほうがきれいだと言うんですよ。これは主に輝度の問題で,2mとか3m離れてみると,決してハイビジョンがきれいには見えない。近づいてみると,もちろん,ハイビジョンのほうがきれいだと分かります。おそらくハイビジョンはマルチメディアとしてのディスプレイ環境を統合していきますが,そのためにはNTSCをどのように内包するかをも考えていく必要があると思います。つまり、感覚的なモチベーションをきちんとわきまえないで,数字上のスペックだけを追い求めていくと,テクノロジーのイノベーションは,ハイビジョンにしろ,コンピュータ上のマルチメディアにしろ,これから難しい局面にぶつかるということです.
 これは,次世代のあらゆる先端技術を,エンターテイメントテクノロジーという枠組みの中で,再編成しなければならないということを意味しています。そのときに,僕が,「メチエ」と呼んでいるものが重要になってくるのです。この「メチエ」という言葉は,日本では「技芸」と訳されることが多いのですが,「技術」と「芸術」を統合化し融合した概念です。今までの20世紀的なアートとか芸術,技術と言っていたものとはかけ離れた,新次元の「メチエ」というものが創出されてくるプロセスが,この'90年代に予備的に出てくるのではないでしょうか.


巽 孝之
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アーサー・C・クラークの「2001年宇宙の旅」は未来を描いたものですが,実際に発表されたのは1968年です.だから,未来といっても1968年においての“未来”なんですね。クラークの小説版をよく読むと,コンピュータに関連する重要な示唆があります。あれは,実は,HAL9000型とモノリス型の2つのコンピュータが闘争する物語として読むことができる。普通は,たんに映画版の印象なんでしょうが,モノリスを一種の超越的な神秘的実体だと思い込んでしまっているため,どうもドラッグ体験や意識革命に結び付けて考える傾向が強い。キューブリック自身の映画のラストシーンが典型ですね。
 ところが,クラークは非常に緻密に小説を書いていまして,HALの発狂も,モノリスがハッキングをした結果ではないかというふうにも解釈できるんですね。モノリスがHALをしきりにいじっているんですよ.今考えれば,モノリスというのは一種のサイバースペースのようなもので,ギブスンならばマクロチップ(マイクロチップではなく)と呼ぶであろうような,そういうイメージを予告していたわけです.HAL9000型のテクノロジーが滅んで,その次にモノリス型の時代がくるという,あれは一種の予言の書だったんじゃないかな。映画では,あくまで'60年代的な感性によって,モノリスはドラッグであるということになっていたのですが,そのドラッグ自体がマイクロチップによってとって代わられた。つまり、反テクノロジー的にして“最も文学的”なイマジネーションをかき立てていたモノリスが,現在では立派にテクノロジーと化すというパラダイムシフトがあったわけですね。
――そうしたモノリス的テクノロジーは,どういう影響をもたらしているのでしょうか?
'60年代を動かしていたのは,たしかに“未来”というパラダイムだったと言えるでしょう。そうした“未来”にぴったりだったのがHALでした.ところが,その“未来”がとうに過ぎ去ってしまっている.未来というのは,今や言説にすぎません。ですから,今のSFが描くのは,未来ではなく現在や過去になっている.
 過去、現在、未来というリニアな時間軸がありましたが,今は,どんどん現実や歴史、そして未来までをも複数化して考えられます。そもそも,“未来”ではなく“現在”だと言っても,それは新たに“現在”という名の神話(=オモチャ)を手にしたにすぎない。“現在”も過ぎ去ってしまうでしょう.ただし,スチームパンクのような歴史改変ものの小説やゲームが流行る背景には,モノリス的ハイテクによる差異化が進んで,歴史や人間のアイデンティティを,“現在”のあり方さえも,いかようにも語ることができるようになってしまったということがある.そういう感性は,すべてハイテクによってもたらされたはずです.
――ハイテク化が,人間の内面までも変えてしまうということですね。
というよりも,まずイマジネーションがあって,それがやがて具体的なテクノロジーとなるんじゃないでしょうか.リチャード・コールダーがナノテクを主題化したSFを書いた背景には,まず人形愛的なピグマリオンコンプレックスへの傾斜があったわけだし…….
――10年後を予測できるような現在のイマジネーションは,どこらへんにあるとお思いですか?
ブレット・イーストン・エリスの小説に出てくるような,おぼっちゃま/おじょうちゃま悪ガキ集団を「ブラットパック」(BratPack)と言っています。若くして地位も財産も得てしまった人間は,ちょっとやそっとでは満足しない。「アメリカン・サイコ」で描かれたみたいに,昼間はウォール街のエリート,夜になるとチェーンソーを振り回してエルム街の悪夢をやってしまう.今までは,そういうバイオレンスに走るのは,下層階級やドロップアウトだったわけですが,この「ブラットパック」は良家の子女でなければならないんですね。この「アメリカン・サイコ」で描かれているようなチェーンソーの役割が,なんらかの構造としてハイテク環境で反復され,抽象化されていくんじゃないか。今は文学的イマジネーションでしかありませんが,おそらく10年後には,そういうものがなんらかのテクノロジーとしてハイテク上流階級の欲望を写しとっていくと思います。



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